プロフィール


学生時代


九州時代 誕生〜小学校6年夏

1973年私は九州の大分県佐伯市で生まれました。小学校卒業直前まで私は九州で過ごしました。たくさん遊びました。テレビゲームが流行り始めた時代でしたが、私の遊び場は山であり、川であり、近所の広場でした。昆虫を探し、魚を掴み、チャンバラでケガばかりして、日が暮れるまで夢中でした。こういう少年時代を過ごした最後の世代なのかも知れません。

そして多くのことを親だけでなく、小学校の先生や周囲の大人たちが教えてくれました。

鉛筆やお箸の持ち方、靴を大切に履いて物を大切にすること、本を読み日記を書くこと。やんちゃ坊主でしたし、ケンカもよくしましたから、先生にはよく叱られ時にはビンタをされたことも何度もありました。でも小学校4年生当時の恩師に今でも会いたいなあと思います。


中学時代 静岡市立長田南中〜城山中

中学時代は勉強と生徒会の日々でした。

みんなで相談して決める、やってみる、うまくやれたかを振り返る。楽しい思い出話になる。この繰り返しが今の議員活動に繋がったのだ思います。夜遅くまで生徒会室で作業することが本当に楽しかった。

そして中学は勉強の毎日。今までを振り返っても一番丁寧に勉強したのはこの頃だったと思います。『嫌いなことでもできる力』が人生では時々必要になります。これを鍛えるには勉強と部活です。

さて議員になった今中学校の運動会や卒業式に招かれます。中学生の姿は生きるエネルギーに溢れています。大人がどんなに世の中を知ったつもりでいても、主役は彼らなんだなあと私は感じます。彼らが必要としているものが何か、ちゃんと考え、用意し、道を譲れる大人でありたいと私は思います。


高校時代 静岡県立静岡高校

高校時代は応援団という部活一色の毎日でした。正式名称は応援指導部。私は30代目の団長でした。

厳しく恐ろしい先輩、辛く終わりのない練習、試合の結果は野球部任せ。一富士の「あったか、つめ、やき」が救いでした。練習を休みたいと毎日思いながら、私たち同期6人は結局3年間一度も休んだことはありませんでした。応援団の仲間は永遠で、思い出は今も増え続けています。

その後大学に入って、政治家になりたいと相談に駆け込んだのも、やっぱり応援団の先輩でした。

古く、厳しい男社会の秩序のなかで覚えたことは、これからも大切にしたいと思っています。


大学受験予備校時代 東京深川で受験生活

私が政治家になろうと決めたのはこの年の秋のことでした。家業があるわけでもなく、とても裕福とは言えない時期を過ごしたことも背中を押して、この時から小さく私的で自由な熱望を大事にしてきました。

勉強に一番必要なことはやはり継続です。この浪人時代に痛いほど思い知らされました。第一志望には合格できず少しだけ苦い経験となりましたが、負けても前に進むことが現実だと学ぶことができました。


大学時代① 社会への挑戦

明治大学法学部に進み、国家公務員試験を目指す行政研究所に所属して幹事長職をいただきながら、公務員試験には早々に見切りをつけ、ひたすら選挙運動の手伝いに奔走しました。東京都知事選、参議院議員選、静岡市長選、衆議院選など、現職の議員、候補者と接することよりも、選挙事務所の大人たちに声を掛けてもらうことが嬉しくて社会に挑むような気持ちでした。1993年に自民党が下野し、日本新党、新生党、さきがけが連立政権を組んで政治改革をやった時代です。

そしてこの運動を通じて出会った先輩方が、今でも私の議員活動を支え続けてくださっています。


大学時代② 住まいとバイト

京王線沿線のつつじが丘駅近くの線路沿いのアパートでの学生時代は、今では宝物のような思い出です。いいことばかり、楽しいことばかりではありませんでした。東京の街に圧倒されて傷ついたことが何度もありました。でも感受性が暮らしを楽しんでいました。若かったんだなあと思います。

ありとあらゆるバイトを経験しました。塾の講師、家庭教師、国会議員の秘書、外務省での事務補助、そして喫茶店の店員、道路工事の荷物運び、ゴミ置き場・夢の島での土掘工事、段ボール工場での梱包、そして上野の配送センターでの深夜の荷分け…。本当に色々やりました。疲れ切って一人で電車を待つ下北沢のホームの風景は今でも忘れられません。

古いアパート、きついバイト、選挙運動への挑戦、毎日本を読み、日記を書いていました。こうした毎日を繰り返しながら、私の政治家への憧れは決意に変わりました。


大学時代③ 2020年の静岡市を考える会と『日本平DC構想』

大学3年の夏、当時無所属の衆議院議員だった牧野聖修先生の下で静岡市出身の同級生たちを誘い『2020年の静岡市を考える会』を立ち上げました。選挙運動ばかりだった政治との関わりが、初めて政策的に社会と繋がった手応えを感じました。一年後私たち学生たちは『日本平DC構想』という書籍を出版することができました。赤坂の牧野先生の議員宿舎に居候してみんなで書き上げた本です。

地方議員になって23年、私のところにも政治家になりたいという学生や若者が相談に来てくれるようになりました。私の秘書を経て市議になってくれた後輩もいます。牧野先生がチャンスを作ってくださったように、今は私が後輩たちにそんな機会を作らなくてはなりません。


市議会時代


病院勤務 精神科病棟から社会を見つめる

大学卒業から2年後の市議選に出馬しようと決めて東京から戻り、私は市内の精神科・溝口病院に勤務することになりました。私の希望をご理解くださった院長先生のおかげです。入院生活を送る患者さんとの話、デイサービスを通じて社会復帰や参加を目指す患者さんへの支援が私の仕事でした。

私たちが何かをやろうとする時、必要なエネルギーを私たちは心のなかから選び取り出すことができます。例えばそれがやる気だったり、工夫だったり、優しさや勇気などの感情だったりします。時と場に応じて選び出せなくなる、選び出すことにとても大変な思いをしてしまうことが、心の病だと私は理解しています。誰でも、いつでも、落ち着いた心で自由な選択ができるように、家庭や学校、職場などの社会が今どんな問題を抱えているのかを、政治は正しく理解しなくてはなりません。


初めての選挙 1999年5月最年少25才で初当選

病院を退職して実質4ヶ月の準備で初めての選挙戦へ。後援会入会のパンフレットさえ受け取ってもらえない日々が続きましたが、元旦から毎朝街頭に立って演説を重ねました。出身が九州ですから、中学校時代の同級生以外にほとんど知り合いはいません。知らないお宅を訪ねる日々。一人の青年は無名です。

それでも次第に事務所に人が集まるようになり、ボランティアで手伝ってくれる同級生たちと毎日深夜まで、試行錯誤しながらあの手、この手を考えました。

投票日から日付が変わった午前3時20分頃やっと当確が出ました。定員45人に対して61人が立候補した激戦で私は44位の当選です。それでも私の政治家人生が始まりました。


静岡・清水の合併 二転三転を繰り返しやがて収まっていく、政治はドラマだ

1999年当時できたばかりの小さな民主党から出馬しましたが、静岡-清水の合併賛否を巡り私は民主党を2年で離党、その後2年間の無所属一人会派を経て、合併で延長された2年間は自民党葵会に落ち着きました。合併直後ということもあり、市議会本会議は清水庁舎で行われていました。

合併直後には決め事が山積しており、新市建設計画の実践、その後の政令市への移行、東静岡地区の利活用、由比、蒲原との合併など議論は尽きず、任期最終年に指名いただいた総務委員長としての毎日は、ベテランの先輩議員に随行する機会が多く、政治が日々何かを決めていく場面にドラマを感じたものです。


落選 もう一度歩く

物事を一度でうまくこなすことが、なかなか出来ません。昔から。勢いに乗っていたつもりでいました。しかし僅かに票数が足りず落選をしました。地元地域にはライバルがひしめき次は勝てるという自信を失くしていました。政治をやめなくてはならないという喪失感。どうしてわからないんだ?という苛立ち。19才の頃からずっと政治のことだけ追いかけて来ましたから、大きな敗北感を味わいました。ニュースを見ても、もう何も考えなくていいんだという無力感さえ感じました。

負けたまま終われない。政治を続けるかどうかは勝ってから決める。そう心に誓いました。この敗北感を拭わずに逃げ出したら、負け癖がつくと思ったのです。

安い自転車を買い、リュックサックにパンフレットと弁当を入れ、もう一度訪ねることから始めました。選挙もないのに毎日配り歩きました。多い日は一日600軒近く歩けました。そしてこれがもう負けないという自信に変わりました。玄関を見れば、どんな方が暮らしているか、わかるようになりました。そして落選から2年後。補欠選挙を無投票で乗り越え復帰しました。

この活動を継続できたのは事務所を無償で提供してくださった地元の方がいてくださったおかげです。そして3期目を迎える選挙では、ようやく安定した結果をいただくことができました。


県議会時代


東日本大震災 2011.3.11 

市議を辞職して県議選への準備を進めていた時期でした。広範囲にわたる予想すらしていなかった甚大な被害でした。県議選を終え当選証書を受け取って間も無く、当時秘書をお願いしていた後輩を一緒に現地へ赴きました。岩手県最北部から沿岸部を南下するルートを車で訪問しました。途中、お花の手向けられているところで手を合わせ、ご遺体の捜索を続ける警察や自衛隊の方々にお話を伺い、被災された知り合いのところに立ち寄り、ボランティアセンターを訪ねました。

支援に駆けつけた方はお分かりだと思いますが、街を彩っていたあらゆる色彩が失われ、瓦礫から飛散する砂塵によってまるでモノクロの霞のなかにいるようでした。

「がんばろう日本!」「自衛隊の皆さんありがとう!」そんな看板をたくさん見ました。

震災の記録や記憶にはたくさんの悲しみや悔しさがあります。その一方で復興していく力強さ、優しさもたくさん知りました。この二つの記憶を出発点にして、一つの命も犠牲にしない強靭な日本を創り上げる。それが政治の使命です。災害対策だけは、互いの事情を飲み込むような妥協をせず、徹底的に政策を注ぎ込むことです。


自民党青年部青年局と政務調査会 下積み時代に見えたものを大切にする

県議会での最初の5年間は自民党の青年部と政務調査会の活動で過ぎていきました。自民党所属の議員にとってとても恵まれた環境だったと思います。青年部長、遊説部長、政調副会長、青年局長、政調会長と歩みを進めることができました。

青年部の運動も政務調査会の取組も求められるのは現場主義です。政治活動にも現場があります。活動のために汗をかき、議論のために徹底的に調べ尽くし、言語化して先輩議員にも政策を共有していただく作業です。

ですから私は、青年部ではひたすら街頭に立って遊説活動をこなし、知事選の候補者からは片時も離れず随行し選挙を学ぶことができました。おかげで県内隈無く遊説し、県内の様々な風景を知り、産業を知り、自民党を支える方々と知り合うことができました。

そして政調会では常に県政の評価と自民党県連の公約作成に従事しました。川勝県政と対峙しながら知事の任期末には評価を点数化して総合計画への提言書もまとめてきました。

こうした活動が実を結び、青年局長の最後の仕事として、政策提言書『青年は創り続ける』を局長時代のスタッフのみんなと共に出版することができました。これは全国的にも青年部組織初の試みとなり、こうした活動が高い評価をいただき、翌年には自民党本部から最優秀組織として表彰をいただきました。


自民党静岡県連政調会長 決断の連続、揺るぎない意志と反射神経を試される

県議2期目43才の頃、県連政調会長を拝命しました。幹事長は青年部時代からご指導いただいている浜松市東区選出の中沢公彦県議。自民党県連の三役に就くと本当に決断の連続です。常に正しい選択などできるはずもありません。でも私はこの一年で、中沢幹事長の下で痛切に学んだことがありました。それは迅速な決断が何物にも勝る政治的行為であるということ。決断があれば私たち側近が動き始め、組織に指示が出され関係機関へと波及し、社会にメッセージが伝わり、政治的な決断を促すことになります。そして決断が早ければ早いほど、仮に完全な選択ではなかったとしても、修正もでき周囲の協力も得られます。これは私にとって重大な発見でした。

そしてもう一つ大切なことは意志の明確さです。自らの過ちに気付いて正すことはもちろん大切ですが、はっきりとした意志を常日頃から内外に示しておくことは、政治への信頼を生みます。そしてこの強い意志を保つためにはひたすら鍛錬です。情報を集め、正しく理解して分析し、自らの意志の向こうにある判断はどうあるべきかを見定める、その迅速な繰り返しです。この鍛錬こそが、ことば巧みな説明の真意を見抜く政治家の目を養うのです。

私はまだまだその訓練の途上にあります。本当に日々心掛けるしかないのです。